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日本統治時代における台湾の対外発展史

日本統治時代における台湾の対外発展史 : 台湾総督府の「南支南洋」政策を中心に/鍾淑敏/東京大学博士論文/1996

 この資料は、台湾の研究者と見られる著者による博士論文(東京大学)である。
 この資料を知ったのはつい二日前、たまたま別の調べ物をしていたところ、Wikipedia上に杉山茂丸と因縁ある愛久澤直哉(あくざわ・なおや)という人物の項目が知らないうちにできていて(もちろん、大抵のWikipediaの記事は筆者の知らないうちにできるものではあるが)、そこに台湾総督府に対して「愛久澤に対する讒言が杉山茂丸によりなされた」という、筆者にすれば驚くべきことが書かれていた。きちんとそのソースは示されていて、それが今回採り上げる博士論文であることが判明したので、直ぐさま国立国会図書館関西館へ赴き(関西館までは拙宅から車を運転して三十分あれば到着する。田舎暮らしでも、この点だけは地の利を感ずる)、内容を確認したのである。
 この論文の第二章第三節に、愛久澤と杉山とのことが書かれている。確認するに、Wikipediaの記事のように杉山が愛久澤のことを「讒言」したとは書かれていない。鐘が論文で引用しているのは、杉山茂丸が後藤新平に宛てた明治37年6月16日の書翰(鐘はこれを「意見書を提出」と書いているが、これは意見書などではなく、書翰である)で、そこに愛久澤についての比較的長い文章がある。以下に引用しておく(筆者による翻刻。適宜句読点を加えている)。

  第三 愛久澤氏の件
此儀に付いては、小生台湾政府が南清の政策の為めに非常に憂慮罷在候事にて、再びあの位の手腕ある人を得ると云ふ事は、今日無人の時に臨み、余程の困難と存じ候。其の人が御書面の如く部下の者を使役する点に於て多少の欠点あるは、又た其の人物の為めに非常に憂慮すべき事柄と存じ申候。而して斯かる愛久澤氏を使役せさるへ可らさる閣下の御職務も亦た、非常の困難なる事と拝察仕候。併し愛久澤氏が部下を使ふ事と、閣下が愛久澤氏を使はるゝ二点に於て、若し欠点なくんば愛久澤氏の手腕としては、更に間然する処有之間敷と奉存候。此の儀ハ傍観者たる小生の言にて、敢てをこがましき言語を閣下の前に陳し奉るの資格も無御座候へ共、小生自身の力量に計り見、正直に申上くる次第にて、今小生が閣下の身となり愛久澤氏を使役せさるへ可らさるの地位と相成候時は、至極の困難を相感ずべく、又た愛久澤氏の身と成り閣下の命を奉じて南清の計画を為さゝるべ可らさる境遇に小生が相成候時は、是れ亦た容易ならざる難事にて、小生としてハ殆ど其の成功の上に付き、非常の疑を自ら抱き申候。故に何卒爾後も愛久澤氏に対し、一層の御信任を以て厳重直接に御訓誨被遊、愈々腹心的に御使役被遊候外、良策有之間敷。苟も有為の人物は威力を以て使役すべ可らず、金力を以て使役すべ可らず、慰撫を以て使役すべ可らず、狃□〔昵カ〕を以て使役すべ可らず、唯淡泊なる精神を彼の腹中に押し、共に組んで墜つると云ふ決心を以て、彼満脳の精神を吾腹中に引附けるやうにて使役せざれば、成功覚束なきものかと奉存候。山縣の爺は見掛けに依らず慰撫に失し、大黒は狃□に失し、伊藤の爺も遁責に失し、児玉の爺は少しく威圧に失し松、井二伯は金圧に失し、皆な人悉く一癖あり。此の点に付いては、小生平生の愚見を包まず吐露仕候間、御参考の一助にも相成候ハゞ、平生の奉懐是れに過ぎず奉存上候。

 鐘はこの文面を、「総督府の対岸事業を愛久沢に「包括的委任」することへの不信を直言した」と評する。それは筆者が引用文のうち青字で表記した部分を引用してそう述べているのである。しかしこれは明らかに書翰の趣意を読み違えている。杉山は後藤から受け取った『御書面の如く部下の者を使役する点に於て多少の欠点ある』ことを報じる書翰に対して、この書翰で反論しているのである。すなわち愛久澤は欠点はあるが手腕ある人物であることを述べ、ひとそれぞれ癖があるのだから、「共に組んで墜つると云ふ決心」をもって愛久澤を使えと進言しているのである。青字の部分は、愛久澤も後藤も癖の強い人物だから、かりに自分が後藤の立場で愛久澤を使うならなかなか難しいだろうし、一方自分が愛久澤の立場で後藤に使われるなら愛久澤のような実績を挙げることはできないだろうと述べているのである。鐘はこの書翰によって後藤と愛久澤の「両者の信頼関係が失われ」たと述べる。しかしこの書翰をそのような効果をもたらすものとして読むことはできない。鐘はこの書翰の後の部分で杉山が児玉源太郎の言を書き記して後藤に報じた部分についても、文面の理解は間違っていないにもかかわらず、児玉が愛久澤に不信感を抱いている発言と杉山が理解しているなどと書いている。いちいち引用はしないが、これもまた読み違いと言わねばならない。
 もちろんここでの読み違えがこの論文の価値を損なうことはないだろうが、杉山研究を標榜する筆者としては、讒言してもいないものを讒言と言われ、不信の表明ではないものを不信の表明と書かれることは、杉山の名誉を損なう(尤も、筆者は杉山の「名誉」を形成しているであろう国士としてのイメージを剥ぎ取ってやろうという考えで日々研究にいそしんでいるのだが)ものであるので、泉下の彼に代わってここで弁明しておくのである。それは筆者がやらねばほかにできる人はいないと自負しているからでもある。

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支那革命外史

支那革命外史/北一輝著/北大輝発行/1938.11.19(増補第五版)発行

 杉山茂丸が孫文の中国革命を支援したという言説は、嫡孫の龍丸が言い始め、おそらく今では杉山の事績のひとつとして当り前に理解されているのではないかと思う。それは杉山=アジア解放運動の担い手というイメージを伴って、彼の実相とは異なる次元で語られているのである。
 彼の実相とは異なる次元と筆者が言うのは、杉山が孫文の中国革命を支援したという事実を証すような史料が、管見の限りでは見当たらないということに由来する。歴史を実証的に捉える立場からすれば、杉山の孫文支援というのは、実証されていない言説であり、信頼するに足りない空説に過ぎないことになる。
 そうした中で、唯一と言ってよいだろうが、杉山と辛亥革命との関わりについて書かれた同時代の文献が、この北一輝の『支那革命外史』である。引用しておこう。

「不肖が宋君の名を以て内田君等の活動に期待せしは其の山縣桂諸公の長州計に有する地歩によりて当時の中心的権力なる彼等の黙諾又は冥助を得る事に在りき。同君が朝鮮及び支那の秘密結社に通暁せりとの信用は、武漢勃発と同時に杉山茂丸氏等と共に桂を動かし山縣を動かし以て伊集院公使の残逆なる提案──独逸の為せし如く武漢を鎮圧して満洲の屑々たる諸懸案解決の好意を買ふべしとする打算的無道──を破砕して革命の萌芽を蹂躙せんとする過失を一髪の間に阻止したるものなり。これ実に他の囂々者流の企及すべからざる氏の勲功にして宋君等革党一団の深く認めて感謝せし所なり」

 ここで北が言っているのは、辛亥革命勃発の際に、内田良平が杉山茂丸の協力を得て、山縣有朋や桂太郎に働きかけ、革命の推移に対する介入を防いだということであり、その結果辛亥革命は成功したのだというものである。
 ただ、北が何を根拠にそう言っているのかは全く不明である。当時北は上海にあったから、ここで書かれている内容は伝聞に基づくものと考えて間違いない。従ってこれを単純に事実として受け止めるわけには行かない。内田良平は古くから孫文支援に関わっていたから、辛亥革命の際に裏面工作に携わったという言説には一定の納得性がないわけではない。しかし杉山と孫文ら中国革命派との接点は、筆者の知る限りで何もないのである。黒龍会が後年に著わした『東亜先覚志士記伝」下巻の列伝に掲げられた杉山の小伝にも、孫文の中国革命に杉山が何らかの関与をしたということは何も書かれていない。杉山と中国革命に何らかの応接があったのであれば、黒龍会の文献に全く触れられないということは不可思議と言わねばならないだろう。
 孫文が袁世凱に中華民国大総統の地位を禅譲したとき、頭山満ら孫文を支援してきた日本人はこれを非とした。そして彼等の懸念どおり、袁世凱は権力を振りかざして孫文らに圧力をかけ、中国の政情は再び混乱に陥る。そのとき杉山は、日本が袁世凱の北京政府を承認すべきだと明確に主張している。孫文の如き理想家を相手にすべきではない、とも言っている。これは後藤新平文書の中に残された寺内正毅宛ての杉山の書翰にそう書かれているのである。
 杉山が孫文を支援したことを証明する一次史料は見当たらない。しかし杉山が孫文ではなく袁世凱の政府を承認すべきだと主張していた一次史料は存在する。この事実は、杉山と中国革命との関わりに対して、いったい何を物語るのであろうか。
 本書は大正10(1921)年の初出、筆者が参照した増補第五版は国立国会図書館デジタルコレクションの一点としてインターネット公開されているものである。

伊東巳代治宛杉山茂丸書翰

伊東巳代治宛杉山茂丸書翰/伊東巳代治関係文書に収録/国立国会図書館憲政資料室所蔵

 政治家の書翰や日記といった一次史料を読む楽しみは、政治過程の裏面を知ることだけでなく、その書き手の一般には知られていない素顔を垣間見ることができるということも実に大きい。ただし、それを読むのはそう簡単なことではない。原敬日記のように翻刻公刊されているものなら、それを買うなり規模の大きな図書館へ行くなりすれば容易に読むことはできるが、未翻刻のものは、書き手の癖のある字をいちいち解読しなければならないという難行苦行が行く手を阻もうとする。
 杉山茂丸が諸家に宛てた書翰のうち、伊藤博文、山県有朋、大隈重信、寺内正毅といった人物の文書に残っているものは翻刻されているが、大物の後藤新平文書は藤原書店のプロジェクトが進行しているのか停滞しているのかよく判らない状況であるし、斎藤実や田中義一らの文書に残っている書翰なども自分で読むしかない。したがってこれらの書翰の複写を取り寄せて読解にこれ努めてはいるものの、なにぶんにも独学といえば聞えはよいかも知れないが、くずし字の入門書一冊を読んだだけで、あとは奈良文化財研究所と東京大学史料編纂所とが共同運用しているWeb上のデータベースを頼りにした我流自己流勝手流なので、一点の書翰中にどうしても読めない字がいくつも残ってしまう。とはいえ、八割九割読めれば、その書翰に書かれている内容の趣旨は判読できるので、別段翻刻出版を目指すわけでもない身としては、一字一句まで万全を期す必要もなかろうと割り切ることにしている。
 伊東巳代治に宛てた杉山茂丸の書翰は、憲政資料の伊東巳代治関係文書中に二通残存している。一通は大正3年8月2日付、もう一通は年代不明の12月25日付である。この二通の書翰が面白いのは、どちらも杉山茂丸から伊東巳代治に宛てた、借金の依頼状だという点にある。
 前者は時候の挨拶に続いて自身が病気伏臥しており高熱に苛まれていると述べて、「若し閣下に於て二三千円の下熱剤御所置も被為有一時恩借相叶はば」云々と続ける。大正3年の二三千円であるから現在価値に換算すればおよそ六百万〜九百万円にあたる。こんなべらぼうな解熱剤があるはずもなく、病気伏臥などというのが言い訳にすらならないことは明瞭である。
 もう一通も同じく病気療養中であることを述べた上で、「若し御手許御猶予にも候はば千五百円斗り御恩借相叶間敷哉左すれば直に起上り可申候」と、結局金の無心が書翰の用件であることがわかる。こちらは年代が不明であるが、前者と同時代だとすれば四百五十万円ぐらいの金額になる。
 杉山茂丸の借金自慢は『百魔』などで自ら語っていることではあるが、書翰を読むと借金申込みの文面の臆面のなさに呆れる。伊東巳代治と杉山茂丸との関係は古く、明治34年ごろの伊東巳代治の日記に早くも杉山の名前が出て来る。ともに刀剣愛好という趣味の一致もあるので、こうした臆面もない借金申込みができる関係であったのだろうが、一方で杉山の書翰はおそらく数多く伊東のもとに送られていたに違いないのに、この借金申込みの二通だけが伊東の文書中に残されたことは、枢密院の奥所に蟠踞して歴代内閣をいじめ抜いた伊東巳代治という人物の、煮ても焼いても食えぬ気性を現わしているようにも思う。

一年有半(杉山茂丸関係文献・番外編)

一年有半/中江兆民/岩波文庫『一年有半・続一年有半』(井田進也校注)所収/1995.4.17改版1刷発行

 中江兆民の余りにも有名な代表作である。喉頭癌に罹り余命一年半と診断された兆民が書き綴った随想で、漢文崩しの文体に慣れない読者にはハードルが高いかも知れないが、辛辣な世評・人物評に満ちて面白いことこの上ない。既読の方であれば、本書を杉山茂丸の関係文献として採り上げることに違和感をもたれるかも知れぬ。然り、この本に杉山茂丸の名前は出てこない。それが「番外編」たる所以である。
 名前は出てこないのだが、消息は出てくる。52ページである。桂太郎内閣初年の施政についてこう書かれている。

 桂内閣は頃日公債を外国市場に売出さんと欲して、その筋の者をして事情を探索せしめ、応募者なかるべきに窘〔くる〕しむと聞けり、これ始より分り切りたる事なり。

 これは桂内閣により企図され頓挫した外債募集計画についての記述であるが、それを受命してニューヨークからワシントンの間を奔走していたのが杉山茂丸であった。それについてはこのブログのいくつかのエントリーで触れた。すなわち兆民が「その筋の者」と突き放した表現をしているのが、杉山茂丸その人である。これはちょっと興味を惹かれる表現である。というのは、杉山は『百魔』第63章「大阪毎日新聞の成立」の中で中江兆民との出会いを語り、次のように書いている。

 実に其淡泊にして率直なる事、竹を割った程好い気持の男である、此が庵主が中江篤介と云ふ人に面会した始めてゞ、終には庵主が後年米国の紐育に居る時に、書を寄せて一年有半と云ふ書物と共に、癌腫病の生別を送って来て、庵主をして天涯の旅の空で号泣させる程の友誼を積んだ中江篤介であった

 この杉山の言によれば、兆民は桂によって事情探索の命を受けたのが誰であったのか、当然に知っていたであろうが、杉山の名は一切出さずに「その筋の者」と突き放していることになる。それは杉山のいうような両者の親密な関係と背反するようには感じられないだろうか。
 そういえば本書にはよく世に知られた一節がある。兆民がいう非凡人31人の名の後に続けて、西園寺公望や近衛篤麿らに言及して、そして頭山満を「頭山満君、大人長者の風あり」云々と評するのである。しかしこの一節に杉山茂丸の名は出てこない。
 己は彼を友人と思い、彼は己と思いを同じうはしていない。世によくある類の話であろうか。

山河ありき:明治の武人宰相桂太郎の人生

山河ありき:明治の武人宰相桂太郎の人生/古川薫/文春文庫/2002.12.10発行

 この本の著者である古川薫は一昨日、すなわち2018年5月5日に死去した。
 わたしの新聞の読み方はずいぶんいい加減で、紙面をざっと視線で追って、目に止まった記事だけを読む。新聞を隅から隅まで読むというようなことは、生まれてこのかた一度もやったことがない。したがって著名人の訃報などはほとんど気付かないのだが、古川の訃報はたまたま視線に入り、そしてこの本のことを思い出したのである。
 そういういきさつでもなければ、桂太郎を主人公とした伝記小説たる本書を、このブログで採り上げることはなかったと思う。ブログの題とした「杉山茂丸研究」のために裨益することはほとんどないからである。杉山が登場するのは本書290ページ、桂の愛妾お鯉をめぐる挿話である。そこでは杉山をこう描いている。

「浪人」といわれている四十二歳の男である。福岡藩士の家に生まれ、幼くして藩主の小姓役をつとめた。維新後は玄洋社の客員として頭山満の片腕といわれた。
 九州鉄道の敷設、日本興業銀行、台湾銀行の設立にも関わり、中央政界の黒幕として暗躍した。山県はじめ長州閥とも交流し、桂太郎のところにもしばしば出入りしている。
 ゆたかな髭をたくわえ、其日庵などと号して、老成した印象を人に与え、十数歳も年上の将軍たちと対等につきあっている得体のしれない人物であった。


 しかし杉山がのちに桂太郎の伝記を著わしたことには触れていない。桂と杉山との関係をたったこれだけで終らせてしまうのは、杉山研究の立場からすれば物足りないどころではない。
 桂太郎の第一次内閣組閣直後の外債問題についても、「新公債を発行する手段をとることになり、まず駐米公使高平小五郎をニューヨークに走らせ、資本家に接触して公債五千八百万円の発行をもちかけたが不調に終わった」とだけしか書かれていない。そこに大きな役割を担っていた杉山茂丸は無視されている。無視ではなく知らなかっただけなのかも知れないが。また韓国併合についても、桂は消極派で、小村寿太郎ら積極派に押し切られたような書きぶりである。これが正しい認識とはわたしには思えない。
 これは桂太郎という人物を小説として描いたものであるので、幾分かは致し方ないのかも知れない。美化、英雄化を伴わなければ、伝記小説というものの多くは成り立たないし、ヒトラーでもなければ徹底した悪党として描くこともできないであろう。原稿用紙の枡目を埋めることによって生計を立てる作家という職業柄、細部まで詳細に調べるということも中々できないであろうことも判らないではない。
 しかしそれが故にわたしは、伝記小説というものは好きになれないのである。
 ちっとも追悼の意味を持たない文章になってしまった。とりあえず、古川薫にも杉山茂丸に言及した作品があったのだという覚えまでのことでにしておく。

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Tomoyuki SAKAUE

Author:Tomoyuki SAKAUE
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ウェブサイト「夢野久作をめぐる人々」主催

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