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『谷崎潤一郎伝:堂々たる人生』の追記

 ずいぶん前のことだが、本ブログで小谷野敦の『谷崎潤一郎伝:堂々たる人生』を採り上げたとき、亡命インド人青年のK.R.サバルワルについて、同書が野田美鴻の『杉山茂丸伝:もぐらの記録』に依拠して、サバルワルが杉山茂丸の養子になっていたということを書いていることに言及した。野田が何を典拠としてこんなことを書いたのかは、今でも判然としない。しかし、それを示唆する史料を発見したのでここに情報を追記しておこう。
 外務省外交史料館所蔵史料に、「在京印度人ノ現況」と題して、東京在住のインド人の動静に関する調査報告書がある。この報告書では八名のインド人の動静報告がなされているが、その中の一人がサバルワルで、以下のような記述がなされている。

   府下渋谷町上渋谷二三番地四号
    白井アヤ方黒龍会々員
      サヴァルワル
         当二十六年
本名ハ大正六年頃印度ヨリ本邦ニ亡命シ最初高等工業学校ニ入学シタルカ中途退学後内田良平、杉山茂丸等ノ後援ニテ大正七、八年中国際的密偵ヲ為シタルヤノ聞ヘアリ目下黒龍会発行雑誌亜細亜時論ノ校正係ヲ為シ傍ラ「アテネ フランセ」ニテ仏国語ノ研究ヲ為シツツアリ、性質怜悧ニシテ多クヲ語ラサルモ印度問題ニ関シ注意ヲ怠ラサルモノノ如ク常ニ同国人「ラオ」「バクシ」「ボーミツク」「シング」及頭山満、内田良平、杉山茂丸等ト特別ノ親交関係ヲ有セルモノノ如ク現ニ「杉山茂丸ノ養子ナリ」ト豪語シ居レリ(以下引用を略す)
        ※資料出典 JACAR ref.B03050977400「各国内政関係雑纂/英領印度ノ部/革命党関係(亡命者ヲ含ム)第四巻」

 これによるなら、サバルワルが杉山茂丸の養子であったという言説の出所は、サバルワル自身であったということになる。
 野田美鴻は、杉山の次女たみ子の夫である耳鼻咽喉科医石井俊次の遠縁であり、石井家に出入りしていて杉山に関心を持って『杉山茂丸伝:もぐらの記録』を著わしたという。おそらく彼は、サバルワルが杉山の養子であったという言説を、石井夫妻のいずれかから聞いて、それを著作に書き写したのだろう。ただ、それが事実であったのかどうかは、いまだ真偽不明である。
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父杉山茂丸を語る

父杉山茂丸を語る/夢野久作/『文藝春秋』13巻9号(昭和10年9月) ほか

 杉山茂丸の没後間もなく、嫡子夢野久作が発表した回想。その素顔を知悉していた肉親による杉山茂丸の人物像が描かれているという点で、極めて貴重ではあるが、肉親であるがゆえにその素顔がありのままには描かれないという側面があることは否めない。
 この随筆をここで採り上げるのは、本文中の校正の誤りが昭和10年の初出以来、実に85年もの長期にわたって訂正されることなく放置されていることに気付いたからである。発表する場もないので、ここで報告しておく。
 誤りがあるのは、次の一文である。

「宗像郡神与村の八並から筥崎へ移転して来た」

 これは『定本夢野久作全集第七款』(2020年月)では116頁の下段7行目から8行目に掲げられている。地名にはルビが打たれていて、それぞれ「むなかたぐんじんよむら」、「やつなみ」、「はこざき」である。
 問題は「宗像郡神与村」である。もちろん、これは往時の地名であって今や宗像方面に村は存在しないのだが、実は「宗像郡神与村」なる地名は、過去においても存在していなかった。存在していたのは、神興村である。「じんごむら」または「じんごうむら」と読まれたようだ。
 かつて八並はひとつの村として存在していた。昭和8年発行の『福岡県史資料 第二輯』に掲げられた明治11年の布達「福岡県各郡区町村分画」には、八並は宗像郡内の60余りの町村のひとつとして挙げられている。明治17年の調査では、戸数89戸、人口406人とある。この小さな村は、明治22年の町村合併に際し、津丸村、村山田村、久末村、手光村の四村と合併し、新しくできた村の名称が神興村であった(前掲書所載「明治二十二年町村合併調書」)。
 村名が神興村となった理由は「此五ケ村の内抽て大村たるものなく、且歴史上関係の地名非らざるを以て、此新名を付するに至れり、此神興は当地方面八ケ村関係の神社号にして、郡下に在て著名なれば、之を撰定する敢て不可なきを認む」(片仮名を平仮名に改めた)とされている。すなわち、五つの村を合併するに際し、特に規模の大きい村もなく、歴史的に重要な地名に由来する村もないため、同地方の著名な神社である神興神社の名から新しい村の名を採ったというのである。この一文にある神興神社は、福岡県福津市に現存する。
 では、どうして神興村は神与村と誤られたのか。
 初出を確認すると、この村の名は
  神輿村
 と書かれている。ルビは付いていない。これは「みこし・むら」と読める。夢野久作が村の名を誤解していたとは考え難いから、おそらく『文藝春秋』の編集者が、「神を興す村」を「お神輿の村」と勘違いしたと考えられよう。手書き原稿の時代であるから、あってもおかしくない誤解である。
 次にこの随筆が最初に単行本に収録された『近世快人伝』初版(黒白書房、昭和10年12月)を見ると、
  神與村
 と書かれ、総ルビでここには「じんよむら」とルビがふられている。すなわち、『文藝春秋』で誤られた表記が、『近世快人伝』で更に誤られたのだ。「與」はもちろん、「与」の正字体である。
 そして三一書房版の『夢野久作全集第七巻』(1970年1月)。ここでは漢字が簡易体に改められ「神与村」と表記された。ルビはない。
 ちくま文庫版『夢野久作全集第十一巻』(1992年12月)では「神与村」で「じんよ」のルビ。
 葦書房版『夢野久作著作集第五巻 近世快人伝』(1995年2月)では「神与村」で「じんよ」のルビ。
 文春学藝ライブラリー版『近世快人伝』(2015年6月)では「神与村」で「じんよ」のルビ。
 そして冒頭の国書刊行会版が続く。管見の限り、以上がこの随筆の出版履歴のすべてである。
 すなわち
 興→輿→與→与
 という変遷で誤りが現在まで続いているのである。
 実は筆者も偉そうなことは言えず、『民ヲ親ニス』1号の拙稿では「神与村」と書いてしまっている。誤りに気付いたのは一年半ほど前のことで、昨年『福岡地方史研究』57号に寄稿した「福岡藩馬廻組百三十石杉山家の幕末維新」では神興村と表記している。

中村精七郎伝

中村精七郎伝/的場新治郎/私家版(山九株式会社)/1958.5.3初版(2003.10.1複刻版)

 中村精七郎(明治5.5.3〜昭和23.9.14)は東証一部上場の物流を中心とした山九株式会社の創業者である。明治38年に中村組を創設して以後、いくつもの企業経営に携わったようだが、山九は現在まで生きのび、東証一部に上場するまでに成功をおさめた。
 中村精七郎は、杉山茂丸の門下生の一人と目されている。杉山門下の実業家といえば、真っ先に星一の名が思い浮かぶが、星の製薬事業がその原因は何であれ結果的に破綻した(もっとも星製薬という会社はいまも存続しているそうだ)ことを考えると、中村精七郎は杉山門下の優等生とでも呼ぶべきであろう。
 本書は中村没後十年にしてその山九が私家版として発行した伝記である。中村の半生記については、杉山茂丸自身が『百魔続篇』に書いているので、本ブログを読まれるほどの人であればご承知であろうと思う。平戸の出身で、かつて本ブログで採り上げたことがある山縣勇三郎はその実兄である。また杉山が博多湾の築港を企てたとき、築港会社の経営に関与した中村定三郎も精七郎の実兄である。彼ら兄弟と杉山との関係の発端が、山縣勇三郎と杉山との明治中期以来の親交にあったことは『百魔続篇』に書かれている。
 中村と杉山との関係については、博多湾築港会社の創設にあたり多額の出資をしたことが有名であるが、おそらくそれに至るまでには、中村は杉山から多くの利益媒介を受けていたものと思われる。彼は杉山が朝鮮総督寺内正毅を京城に訪問した際に同行したり、杉山の紹介状を持って内務大臣であった後藤新平を訪問したりしている(第二次山本内閣当時)。情実がまかり通る当時の政財界にあって、杉山の庇護下にあることは、官庁との関係を取り結んで公共事業に参与する上で、極めて大きなメリットを持ったはずだ。
 それがゆえ、この中村の伝記にはいたるところに杉山の名が登場する。数え切れないのでいちいち何が書かれてあるかは紹介しない。杉山の事績、杉山と中村精七郎との関係を知る上で、極めて重要な資料であるということのみ記しておこう。
 残念ながら本書は非売品であり、一般にはほとんど流通していない。国会図書館にあるのは確認しているが、公共図書館では長崎県立に所蔵されているのみである(国会図書館サーチによる)。CiNiiで調べると大学図書館では一橋大学、京都産業大学、下関市立大学に所蔵されているようだ。
 筆者はかつて、杉山研究をしている旨を記した書翰(メールであったかも知れない。記憶がはっきりしない)を山九株式会社に送り一部頒布を願ったところ、無償で恵与くださったので、複刻版を所蔵している。その後元版も手に入れたが、こちらは知友に進呈した。ときどき「日本の古本屋」で探してみるが、ヒットしたことはない。入手はかなり困難な資料である。

憶伊藤公爵閣下

憶伊藤公爵閣下/杉山茂丸/『サンデー』第50号/明治42年11月7日発行

 杉山茂丸の生涯を彩るさまざまな事績の中でも、その青年時代を象徴するものが、未遂に終った伊藤博文暗殺計画であることは、杉山に関心を持つ者であれば異論のないところであろう。
 明治十八年ごろ、杉山茂丸は伊藤博文暗殺をこころざし、佐々友房から借りた金で上京し、山岡鉄舟からもらった紹介状を懐にして伊藤博文に面会し、その秕政を厳しく糾弾したところが、逆に説伏されて己の誤りに気付いた──それが杉山のいう伊藤博文暗殺計画失敗の顚末である……とわれわれは知っているように思っているのだが、果してそれは本当だろうか?
 私がここで言うのは、杉山による伊藤暗殺未遂という事績が本当にあったのかどうかということではない。私が言いたいのは、われわれは杉山がその著作の中で伊藤博文暗殺未遂を物語ったという、そのことを知っているように思いこんでいるだけなのではないか、ということである。
 いやいや、それは杉山が書いた本の中に、ちゃんと出てるじゃないか──そう反論されるかも知れない。
 確かに、杉山について書かれた文献を見ると、その青年期に言及したものであれば、一様に伊藤暗殺未遂事件にも言及しているに違いない。杉山のまとまった伝記や研究書、例えば野田美鴻『杉山茂丸伝:もぐらの記録』、堀雅昭『杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》』や、西尾陽太郎「杉山茂丸小論」、一又正雄『杉山茂丸:明治大陸政策の源流』、室井廣一「杉山茂丸論ノート」など、いずれを見ても、それは杉山茂丸の事績として、明確に書かれている。
 だが、杉山がこの事件を自ら語った『其日庵叢書第一編』の「借金譚」にせよ、『俗戦国策』の「生首抵当事件」にせよ、杉山が首を狙った相手が伊藤博文であるということは、ただの一度も書かれていないということに、われわれは気付いていないのではないだろうか。
 認知心理学には「記憶インプランテーション」という研究分野がある。誤った記憶を人に植え付けることをそう呼ぶのであるが、杉山の伊藤博文暗殺未遂事件に対するわれわれの記憶も、いわばその一種ではないだろうか。多くの文献で杉山が伊藤を暗殺しようと企図して果たせなかったという事績が語られていることによって、それがあたかも杉山の著作の中にそう書かれているかのような認識が植え付けられてしまい、実際に杉山の著作を読む際に、その誤認識がバイアスとして働いて、著作には「大臣」「大官」としか書かれていないこと、伊藤博文という名は出てこないことを見落としているのではないだろうか。
 今回採り上げた資料は、雜誌『サンデー』の伊藤博文追悼特集号に掲載された杉山の著作である。これを採り上げたのは、上述した杉山の伊藤暗殺未遂に関して、唯一それを物語っていると読むことができる文献だからである。引用しよう。

余は昔日政治上の見解より、数年の間公の首を覗ひたる者なり。当時余は親しく公に面晤して、公に対する満腔の不平と慷慨の所思を開陳することを得たり。而して余が此の公との会晤は余が公の首を数歳覗ひたるの誤解を悔悟せしむると同時に、公も又余等を誤解せしめたるの行動を悔悟せられたるなり。

 以上の引用のとおり、ここでは伊藤暗殺未遂事件について杉山自身の述懐として語られていると読むことができる。ただ厳密に考えれば、ここで語られていることがすなわち「借金譚」や「生首抵当事件」で語られた事績とイコールであるとは証明できないことに留意せねばならないだろう。
 この資料は雜誌掲載されただけで、単行本未収録であるから、おそらくこれを読んだことがある人はほとんどいないだろう。室井廣一は読んでいたに違いないが、それ意外の面々は読んでいただろうか。特にノンフィクション作家などは読んでいたとは思えない。おそらく誰もが、先に書かれたものを引いて伊藤暗殺未遂という杉山の事績を無批判、無検証で受け容れているのである。
 私の見るところでは、杉山茂丸の伊藤博文暗殺未遂事件を最初に筆に乗せたのは、杉山龍丸である。「杉山茂丸の生涯」(1970)がそれである。実は日本の敗戦後、杉山茂丸について書かれた文献というのは、龍丸のこの一篇が発表されるまでの25年間で、わずか7点しか登場していない。これは筆者のウェブサイトに掲載している「杉山茂丸関係文献リスト」の「3.杉山茂丸について書かれた文献」を参照して貰えば一目瞭然である。そして、龍丸以前には、杉山茂丸が伊藤博文暗殺未遂事件をおこしたと書いている文献はひとつもないのである。おそらく龍丸のこの著作が、記憶インプランテーションをひきおこす原因になったのであろう。1970年当時、忘却の彼方にあった杉山茂丸という人物の伝記を、その嫡孫が書いたというインパクトは極めて大きなものであったはずだ。
 では龍丸は、祖父が書いた「憶伊藤公爵閣下」を読んでいたのだろうか。私は、杉山文庫に『サンデー』が一冊も残っていないことから、その可能性は低いと考えている。おそらく龍丸は『俗戦国策』などを読んで、祖父が「大臣」と呼んでいるのが伊藤博文であると自身で判断したのだろう(『俗戦国策』の挿絵が伊藤博文を彷彿させるものであることも影響したであろう)。龍丸の著作の発表後、数年のうちに登場した西尾陽太郎の論文や一又正雄の著作には、既に杉山の伊藤暗殺未遂事件が登場する。彼らは当然のこととして、龍丸の著作を参照していたであろう。
 杉山龍丸の「杉山茂丸の生涯」が、のちの杉山茂丸理解に及ぼした影響は頗る大きい。しかしこの一篇は錯誤や誇張、さらには虚構も含まれる問題の多いものであった。それについては改めて論じてみたい。

日本統治時代における台湾の対外発展史

日本統治時代における台湾の対外発展史 : 台湾総督府の「南支南洋」政策を中心に/鍾淑敏/東京大学博士論文/1996

 この資料は、台湾の研究者と見られる著者による博士論文(東京大学)である。
 この資料を知ったのはつい二日前、たまたま別の調べ物をしていたところ、Wikipedia上に杉山茂丸と因縁ある愛久澤直哉(あくざわ・なおや)という人物の項目が知らないうちにできていて(もちろん、大抵のWikipediaの記事は筆者の知らないうちにできるものではあるが)、そこに台湾総督府に対して「愛久澤に対する讒言が杉山茂丸によりなされた」という、筆者にすれば驚くべきことが書かれていた。きちんとそのソースは示されていて、それが今回採り上げる博士論文であることが判明したので、直ぐさま国立国会図書館関西館へ赴き(関西館までは拙宅から車を運転して三十分あれば到着する。田舎暮らしでも、この点だけは地の利を感ずる)、内容を確認したのである。
 この論文の第二章第三節に、愛久澤と杉山とのことが書かれている。確認するに、Wikipediaの記事のように杉山が愛久澤のことを「讒言」したとは書かれていない。鐘が論文で引用しているのは、杉山茂丸が後藤新平に宛てた明治37年6月16日の書翰(鐘はこれを「意見書を提出」と書いているが、これは意見書などではなく、書翰である)で、そこに愛久澤についての比較的長い文章がある。以下に引用しておく(筆者による翻刻。適宜句読点を加えている)。

  第三 愛久澤氏の件
此儀に付いては、小生台湾政府が南清の政策の為めに非常に憂慮罷在候事にて、再びあの位の手腕ある人を得ると云ふ事は、今日無人の時に臨み、余程の困難と存じ候。其の人が御書面の如く部下の者を使役する点に於て多少の欠点あるは、又た其の人物の為めに非常に憂慮すべき事柄と存じ申候。而して斯かる愛久澤氏を使役せさるへ可らさる閣下の御職務も亦た、非常の困難なる事と拝察仕候。併し愛久澤氏が部下を使ふ事と、閣下が愛久澤氏を使はるゝ二点に於て、若し欠点なくんば愛久澤氏の手腕としては、更に間然する処有之間敷と奉存候。此の儀ハ傍観者たる小生の言にて、敢てをこがましき言語を閣下の前に陳し奉るの資格も無御座候へ共、小生自身の力量に計り見、正直に申上くる次第にて、今小生が閣下の身となり愛久澤氏を使役せさるへ可らさるの地位と相成候時は、至極の困難を相感ずべく、又た愛久澤氏の身と成り閣下の命を奉じて南清の計画を為さゝるべ可らさる境遇に小生が相成候時は、是れ亦た容易ならざる難事にて、小生としてハ殆ど其の成功の上に付き、非常の疑を自ら抱き申候。故に何卒爾後も愛久澤氏に対し、一層の御信任を以て厳重直接に御訓誨被遊、愈々腹心的に御使役被遊候外、良策有之間敷。苟も有為の人物は威力を以て使役すべ可らず、金力を以て使役すべ可らず、慰撫を以て使役すべ可らず、狃□〔昵カ〕を以て使役すべ可らず、唯淡泊なる精神を彼の腹中に押し、共に組んで墜つると云ふ決心を以て、彼満脳の精神を吾腹中に引附けるやうにて使役せざれば、成功覚束なきものかと奉存候。山縣の爺は見掛けに依らず慰撫に失し、大黒は狃□に失し、伊藤の爺も遁責に失し、児玉の爺は少しく威圧に失し松、井二伯は金圧に失し、皆な人悉く一癖あり。此の点に付いては、小生平生の愚見を包まず吐露仕候間、御参考の一助にも相成候ハゞ、平生の奉懐是れに過ぎず奉存上候。

 鐘はこの文面を、「総督府の対岸事業を愛久沢に「包括的委任」することへの不信を直言した」と評する。それは筆者が引用文のうち青字で表記した部分を引用してそう述べているのである。しかしこれは明らかに書翰の趣意を読み違えている。杉山は後藤から受け取った『御書面の如く部下の者を使役する点に於て多少の欠点ある』ことを報じる書翰に対して、この書翰で反論しているのである。すなわち愛久澤は欠点はあるが手腕ある人物であることを述べ、ひとそれぞれ癖があるのだから、「共に組んで墜つると云ふ決心」をもって愛久澤を使えと進言しているのである。青字の部分は、愛久澤も後藤も癖の強い人物だから、かりに自分が後藤の立場で愛久澤を使うならなかなか難しいだろうし、一方自分が愛久澤の立場で後藤に使われるなら愛久澤のような実績を挙げることはできないだろうと述べているのである。鐘はこの書翰によって後藤と愛久澤の「両者の信頼関係が失われ」たと述べる。しかしこの書翰をそのような効果をもたらすものとして読むことはできない。鐘はこの書翰の後の部分で杉山が児玉源太郎の言を書き記して後藤に報じた部分についても、文面の理解は間違っていないにもかかわらず、児玉が愛久澤に不信感を抱いている発言と杉山が理解しているなどと書いている。いちいち引用はしないが、これもまた読み違いと言わねばならない。
 もちろんここでの読み違えがこの論文の価値を損なうことはないだろうが、杉山研究を標榜する筆者としては、讒言してもいないものを讒言と言われ、不信の表明ではないものを不信の表明と書かれることは、杉山の名誉を損なう(尤も、筆者は杉山の「名誉」を形成しているであろう国士としてのイメージを剥ぎ取ってやろうという考えで日々研究にいそしんでいるのだが)ものであるので、泉下の彼に代わってここで弁明しておくのである。それは筆者がやらねばほかにできる人はいないと自負しているからでもある。

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Tomoyuki SAKAUE

Author:Tomoyuki SAKAUE
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ウェブサイト「夢野久作をめぐる人々」主催

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